アンドリュー・ロイド・ウェバーの傑作ミュージカル『オペラ座の怪人』の25周年記念公演が、昨年10月にロンドンで行われた。そのときの記録映像を吉祥寺バウスシアターでスクリーン上映するというので、風邪をおして出かけた。
ガストン・ルルー原作『オペラ座の怪人』は、ブライアン・デ・パルマ『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)のような翻案作品も含めると、なんとこれまでに10回も映画化されている。これほどリメイクされている作品は他にないだろう。舞台のほうは、ロンドンでは『レ・ミゼラブル』に次ぐミュージカル史上第2位の22年、ニューヨークでは21年の史上最長ロングラン公演記録を現在も更新しているという。
史上最強、もっとも人々から愛されているミュージカルであることは間違いない。ルルーも『黄色い部屋の謎』よりも有名な作品になろうとは、よもや推測していなかっただろう。推理作家ルルー最大のどんでん返しかもしれない。
そんな文字通りの「モンスター」ミュージカルの記念公演に、イギリス演劇界&音楽界が威信をかけないはずがない。歌い手といい、踊り手といい、オケといい、舞台装置といい、美術といい、特殊効果を駆使した演出といい、あらゆる要素が最高度に揃えられて、スクリーンを通してからでもその質の高さ、豪華絢爛さ、目も眩むようなイリュージョンの魔術的効果、圧倒的な迫力が伝わってくる。劇場でライブで観たら、腰が抜けるほど衝撃を受け、感動するに違いない。一般に感情をあらわに出さないと言われるイギリス観客たちが、熱狂し、総立ちで惜しみない拍手と「ブラヴォー」を贈っている様子からも、それが十分にうかがえる。
幕が下りた後は、恒例のようにカーテンコールが続くが、さすが25周年、制作スタッフの紹介から始まって、作曲者のアンドリュー・ロイド・ウェバーが出てきて挨拶するわ、歴代のファントム5名が出てきてサラ・ブライトンと一緒にテーマ曲を熱唱するわ、最後は紅白歌合戦ばりに舞台袖から仕掛け花火が発射されるわ、まあゴージャス極まりない。
観劇の余韻など一気に吹っ飛んでしまった。
・・・・。
ストーリー展開も見どころ聴きどころも結末も知っていて、ところどころ退屈な部分もあるこの作品に、今さら涙するだろうかと思いながら観ていたのだが、やっぱりていもなくやられてしまった。ファントムの苦悩が吐露される最初のシーンで。
産みの母親にすら疎まれた醜い顔を仮面で隠し、世間の水準をはるかに凌駕する学識と音楽の才能と器用さとを持ち合わせながら見世物小屋で糧を得ざるをえなかったファントムの半生は、苦悩の凝縮と言っていいだろう。エレファントマンですら、実の母親の愛を受けることができたのに・・・。
人間にとって最初の関係性の作り相手である母親(父親あるいは養父母でもいいが)から愛を拒まれたとき、人は後年いかに才能やお金に恵まれようとも自分自身を肯定することができなくなる。自分で自分を愛することができないとき、周囲からの愛を受け入れることもできない。「こんな自分を愛するなんて、こいつはおかしい。嘘をついているに違いない。なにか下心があるに違いない。」と解釈するからである。
だから、ファントムのクリスティーヌに対する愛もまた、その裏返しで、「音楽の美にともに身をささげる」という大義名分に隠された条件付きの愛である。ファントムに怯え、幼馴染のラウルの手を取ろうとするクリスティーヌに対して、ファントムが「歌を教えてあげたのに、なぜ自分を裏切る?」と怒り嘆く真意は、「歌を教えてあげるかわりに、自分を愛してくれ」ということである。
ファントムの苦悩は、第一義にはその醜い容貌のためであるけれど、二義的には無条件に彼を受け入れ愛してくれる胸に抱かれたことがないことに起因する。ただ音楽だけが、彼の容貌に関係なく、彼を受け入れ、支え、慰め、力づけ、夢見させる力を持っていたのであろう。
人々は、そうした彼の苦悩を観る(聴く)ために、わざわざ安くない金を払って劇場に、映画館に足を運ぶ。DVDを購入する。
なぜだろう?
人の不幸は蜜の味というように、他人の苦しむ姿を見て自らが優越感にひたるためか、自らの幸運を確認し安堵するためか、身内にかきたてられた同情や憐れみをもって己が優しさに酔うためか・・・。
それもあるかもしれない。
しかし、この作品が25年間というもの、これだけ多くの観客を魅了し、今もロングランを続けていることを思うとき、次のように結論せざるを得ない。
苦悩こそが人間の魂の奥底を領する主人であり、苦悩こそがすべての人が理解し共感しうる最たる感情であり、それゆえ苦悩こそが芸術家が表現すべき第一のものである。
もちろん、他人の幸福にも人は共感できる。人が喜びにあふれている姿を見ることは、嫉妬に駆られていない限り、一般に気持ちのいいものである。
ただ、それは周りの者の心を深く揺り動かすだけの力は持っていない。人はどこかで幸福はつかのまのものだと知っているし、幸福な人は「ほっておけばいい」ので、人と人とを結びつける働きも弱い。
一方、他人の苦しみは人を動かし、人と人とを結びつける働きをする。一つの同じ苦しみを通して人と人とが出会った時、人はお互いが「大いなる苦しみの生」という同じ条件下に投げ出されている同じ人間であることを知る。
その悟りが、どういうわけか芸術家を使嗾(しそう)し、芸術表現を生み出させる衝動をよぶのである。
クリスティーヌの無償の愛を受けて苦悩の癒されたファントムは、お得意の手品で持って、舞台から、我々の前から消え去る。
否、我々ひとりひとりの胸の奥に還って、次なる蘇生の日まで眠りにつくのである。