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2016年全国社会福祉協議会刊行。

 8050(ハチマルゴーマル)問題をご存知だろうか?
 「80歳まで50本以上自分の歯を保とう!」
 それは厚生労働省と日本歯科医師会がやっている「8020運動」。成人の歯の数は、親知らずが全部揃っている人の場合32本が普通である。
 8050問題とは、「80歳代の親と50歳代の独身の子供が同居する世帯が抱える様々な問題」を言う。
 例えば、50歳代のひきこもりの息子を心配する80歳代の両親、80歳代の親の年金で暮らす50歳代の独身女性、認知症の80歳代の親を介護する50歳代の独身の息子・・・・・。
 
 8050問題の背景には世代間にある経済的格差が見え隠れしています。つまり、現在80歳代の親世代は、1960年代以降の高度経済成長の時代に終身雇用・正社員として働き、多くがマイホームをもち厚生年金を受け取って生活をしています。一方50歳代の子ども世代は、90年代のバブル崩壊以降にすすんだ「雇用の非正規化」の波に洗われ、若い世代と同様に非正規労働の割合が大きく増えました。正社員として働くことがむずかしくなった世代です。通常は、現役世代の方が豊かで、質素に年金生活を送る親世代を助けていくはずですが、現在の日本では、経済的な豊かさが逆になっている場合があります。・・・・・8050問題の多くのケースが、比較的経済的にしっかりした親世代に対して、それを頼りに生きてきた子ども世代が、親が亡くなったり病気になったりして、その支えを失い、問題を引き起こしています。(本書より)

 親の年金を頼りに暮らしてきた中高年の子どもが、親の亡くなったのを周囲に隠して白骨となった遺体と一緒に暮らしていたというニュースが時折り聞かれる。まさに8050問題のもたらした悲劇と言えよう。
 
 まったく他人事ではない。
 というのもソルティもあと数年で、80歳代の親を抱える50歳代の独身の子どもになるからだ。違うのは、親と同居していないことと、自分の稼いだ収入で暮らしを立てていることだ。が、50年間ただ一つの会社で正社員として働いてきた父親の受け取っている年金収入と、ローリングストーン(転がる石)のような30年間の職歴を持つ現在の自分の勤労収入を比べると、自分の方が低い。
 しかも、ローンが済んだ持ち家に住んでいる両親には家賃が発生しない。当然年金は払っていないし、税金も保険料も医療費も自分より安い。悠々自適と言うほどではないにせよ、財布の中身や銀行の残高と相談しながらケチケチ暮らす必要はない。まず、うらやましい身分である。
 この先、親に何かあったら同居の可能性が出てくる。在宅介護が必要となったら、仕事を辞めなければならないかもしれない。そうしたら、親の建てた家(実家)で、親の年金で暮らすことになるやもしれない。もろ、8050問題予備軍である。

 こうした8050世帯を、どう見守り、支援していくのかが、地域の新たな課題になっています。・・・・・8050世帯は、現役世代が同居して介護しているという認識から、見守りの対象だとは考えられてこなかったのです。もし何かあっても、必要があればSOSを出せるであろうと思われてきました。8050世帯は、いわば「見守りの狭間」「支援の狭間」に落ち込んでいたと言えます。

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 著者の勝部麗子は、大阪府豊中市社会福祉協議会所属のコミュニティソーシャルワーカーである。本書がおそらく初めての本だと思うが、彼女の顔や活躍は全国的に知られている。2014年7月にNHK『プロフェッショナルの流儀』に出演したからである。普段はテレビをまったく観ないソルティだが、どういうわけかこの回だけは観てしまった。あたかも呼ばれたかのように・・・。
 で、凄い女性がいるもんだと感心した。

 コミュニティソーシャルワーカーとは何か。

 コミュニティソーシャルワーカーの存在は、これまで地域で「助けて!」と言えなかった、SOSを出せなかった「サイレント・プア(声なき貧困)」を、住民の協力を得ながら発見し、行政やさまざまな関係機関と連携しながら、これまでなかった地域独自の解決の仕組みを創造していきます。それは、誰もが安心して暮らすことができる地域をつくるためのセーフティネットの構築であり、地域の福祉力を高めることでもあります。

 これまでの福祉は、いわゆる「申請主義」と言われていたように、生活保護でも介護保険でも、原則は本人の申請があってから、担当者が制度の対象としての要件に適合するか否かを検討しはじめるのです。
 コミュニティソーシャルワーカーの支援は全く違います。申請を待つのではなく、住民の協力を得て、「助けて!」と自らSOSを出せない本人を「発見」します。こうした方法を「アウトリーチ」と言います。

 まったく新しい社会的機能あるいは職種と思うかもしれないが、そうではない。
 「ケースワークの母」と呼ばれソーシャルワーカーの先駆となったメアリー・リッチモンド(1861-1928)が、米国慈善組織協会(COS)の友愛訪問員として貧困地域に足を運び実践していたこと、目指していたことが、まさに上記だからである。その意味では、勝部のやっていることは社会福祉の原点回帰であり、勝部はリッチモンドの正統の後継者と言うことができる。お役所への申請主義を常識としてきた「これまでの福祉」の方がずれていたのである。そこでは、福祉手続き担当者は窓口にふんぞり返って、来所した者が既存の制度に適合するかどうかだけを判定すれば良かった。だから、「今まで自分は土木のほうをやっていて福祉ははじめてなので・・・」という頼りなさそうな担当者――実際にソルティが出会った――でも、それなりに務まったのである。

 本書の最大の魅力は実用性にあろう。
 大阪府のコミュニティソーシャルワーカーである勝部が、実際の現場で発見し、出会い、支援し、何らかの解決につなげた「サイレント・プア」の事例が具体的に紹介されている。そして、解決に至るまでの道筋や手段や困難や支援のポイントが惜しみなく披露されている。「ブッダに握拳なし」ではないが、勝部は自らが何年間もの汗と涙と足のマメとで獲得した知恵や技術を、なんら出し惜しみすることなく、小売りすることなく、もったいぶることなく、地域福祉に日々悩みながら携わっている者やこれから携わろうと考えている後進に向けて伝授してくれる。うまくいったケースだけでなく、当事者の自死という残念な結果になったケースもありのまま語っている。とても誠実で公平な人なのだろう。
 コミュニティソーシャルワーカー必携のバイブルであるのは間違いない。

 同時に、本書で紹介されている勝部の関わった10のケース(以下)から、現代日本の地域社会に潜在している様々な深刻な問題が浮き彫りにされる。現代の日本人および日本社会が抱える最も本質的な弱点が見えてくる。

  1. ごみ屋敷の住人
  2. ひきこもりの子どもを抱える家族
  3. 徘徊する若年性認知症患者とその家族
  4. 8050問題
  5. ホームレス
  6. 高次脳機能障害者とその家族
  7. 大地震の被災者
  8. 一人親家庭の子育て
  9. 孤独死
  10. マイノリティ(外国人、セクシャルマイノリティ)
 
 これらがまさにサイレント・プアが息を潜めて生活する現場であり、コミュニティソーシャルワーカーがアウトリーチによって発見し働くフィールドである。
 これらのケースに共通して言えるのは、
① 既存の法律や制度だけでは解決できない。(制度の狭間にある)
② 行政機関や専門家だけでも、地域住民の力だけでも、解決できない。
③ 当事者からSOSが出しにくいため問題が潜在化し、こじらせてしまう。
④ 「人間関係の貧困」が背景にある。
といったところだ。
 見方を変えれば、現代日本社会(法や制度、国民性や文化・慣習、政治や経済)の矛盾や欠陥や弊害や限界が最も脆弱な部分に集まって、傷口からの膿出しを担っているのがこれらのケースだと言えよう。この10のケースのどれにも該当しない‘幸福な’人びとは、該当する人びとの犠牲の上に、市民的な幸福を享受している。
 とりわけ、10のケースに共通して指摘でき、典型的に表出されている「現代の日本人および日本社会が抱える最も本質的な弱点」が、人間関係の貧困=社会的孤立である。

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 町内会や寄り合いや自治会などの「地縁」、家族や親戚などの「血縁」、労働を通じて結ばれる「仕事縁」というものが、戦後どんどん希薄になっていったのは今さら指摘するまでもない。
 この背景には、産業構造の変化、都市化、核家族化、生活様式の変化(欧米化)、高齢化・・・・等々の要因が考えられる。個人はいまや、家族・親類から切り離され、地域から切り離され、労働現場から切り離され、個人主義の御旗のもと「自由」と「プライバシー」を手に入れたのと引き換えに、「孤独」と「不安」にさいなまされることになった。
 若くて健康なうちはそれでもいい。インターネットもあれば、飲みにも行ける。働き口もあるし、娯楽もたくさんある。だが、歳を取って弱ったとき、病気や事故で障害を負ったとき、災害や不運で家族と離れ離れになったとき、仕事が見つからず所持金が尽きたとき、孤独と不安は簡単に人を押しつぶす。昔だったらそんな危機の折には「血縁・地縁・仕事縁」といった‘人間関係のセーフティネット’が機能したのだが、自らそれらに背を向けてしまった。恥も外聞もかなぐり捨てて、「助けて!」の声を上げられなければ、サイレント・プアに嵌まり込んでしまう。
 
 「昔の日本に戻せばいいんだ!」「隣近所で助け合った良き時代へ帰ろう!」
 ・・・・というわけにはいかない。時を戻すのは無理な話。人びとの意識を一昔前に戻すのも無理な話。
 そもそも地縁や血縁や仕事縁を基盤としたかつての組織から人心が離れたのは、それなりの理由があったからである。それらはどれも内部においては、抑圧的で、同一の価値観を押しつけられ、権威主義的で、男尊女卑であった。プライバシーの蹂躙も容赦なかった。外部に対しては、閉鎖的で、差別主義的であった。
 新時代の人びとは、田舎から都会へ逃げるように、うっとうしい‘縁=しがらみ’から身を引き剥がしたのである。それは無理もないことであった。80年代バブル期に都会にあふれたフリーターは、まさに‘縁’を断ち切った者たちの象徴、輝かしいヒーローだった。アルバイトでもパートでも無職でもなく、「自由人(フリーター)」なのだ。彼らは好き勝手に仕事を選び、また選ぶことができた。
 それもバブルが許した幻想であった。ここでもやはり社会にお金がなくなると、その皺寄せは一番にフリーターに向った。フリーターは「派遣労働者」「非正規雇用」と名を変え、もはや企業の人件費削減の為の格好の調整弁でしかなくなった。8050問題における50歳代の子どもたちは、まさに元フリーターだった人々と重なるんじゃないかという気がする。
 
 ともあれ、静御前のように「昔を今になすよしもがな」と嘆いていても仕方ない。新しいルールとつながり方に基づいた新時代のコミュニティが必要になったのである。
 筆頭に上げられるのがNPOであろう。他にも、当事者団体、趣味・道楽の会、オフ会、宗教団体などが挙げられよう。要は、参加者が平等の立場で関わり、学歴や職歴などを持ち込まず、性別や年齢やその他の属性に関わらず参加者各人の権利が等しく守られ、価値観の多様性が保障されるような組織である。あらかじめそこに縛り付けられ選択の余地のない「血縁」や「地縁」に代わり、自分の意思で自由に選べて嫌になったら抜け出すことのできる「選択縁」が重視されるようになったのである。(「仕事縁」も若い世代では「選択縁」になりつつある)
 
 自分の所属するところは自分で選択する。
 基本これでいいのだと思う。
 そう思えばこそソルティも、ローリングストーンの半生を歩んできたのである。ソルティのようなセクシュアルマイノリティにとって、血縁や地縁はまさに「うっとうしい」ものの権化である。(昔、盆正月に親類一同が集まるたびに「結婚はまだか」と責められる農家の長男であるゲイの友人がいた。彼はどうしているだろう?東南アジアの女性と偽装結婚でもしただろうか?)
 一方、選択できないものもある。
 自分が生まれ育つ家庭は、子どもには選択できない。こればかりはどうしようもない。
 また、無人島にでも行かない限り、どこに住んでも隣近所は存在する。選択縁で出会った人々――たとえば同じ宗教組織のメンバーたち――と一つの村を作るのでもない限り、多様な価値観をもつ地域の人びとと共生していかなければならない。自らがサイレント・プアにならないように、地域でサイレント・プアを生まないように、助け合っていく必要がある。なぜなら、孤独と不安で孤立している住人が地域にいることは、地域のいざというときの脆さのバロメーターであり、また犯罪等の発生リスクを高めるから。
 そこではじめて「地域を育てる」という視点が生まれてくる。うっとうしい「血縁や地縁」から逃れ、孤独と不安と‘人間関係のセーフティネット’との大切さを十分に知った人びとが、自らが住むことを選んだ地域に、今度は自らが主体となって、新しいルールを他の住民と協同で創造しながら、‘縁’を作り出していく。それがいわゆる「共生の文化」である。
 コミュニティソーシャルワーカーの役割はその触媒となること。
 すなわち、 地域のサイレント・プアの支援を通じて地域の課題を顕在化させ、解決に向けて主体的に動く人を地域に作り出し、これまでにない新たな地域独自の解決の仕組みを作り、もって地域の福祉力を高めてゆくことである。
 その視点に立ったとき、8050問題の当事者をはじめ「サイレント・プア」の存在は、地域の未熟さを表す指標であると同時に、より社会的包括性に富んだ「優しい」地域を創造するためのきっかけを与えてくれるキーパーソンと言い得るのである。
 
 社会福祉士養成講座のテキストの受け売りのような‘理想論=絵空事’と思うかもしれない。
 だが、勝部麗子はそれをまさに自身が暮らしている地域で実践し、官民連携により10年で400件のゴミ屋敷を当事者の協力を得て解決するという‘奇跡’を起こしている。
 本当の改革者とはこういう人を言うのだろう。

 プロフェッショナル!