ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

ALS

● 本:『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム著、NHK出版)

モリーとの火曜日 1997年原著刊行。

 70代でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した元大学教師のモリー・シュワルツと、かつての教え子であり全米で最も著名なスポーツコラムニスト、ミッチ・アルボムとの交流の記録(ノンフィクション)である。
 墓碑銘に「死するまで教師たりき」という言葉を望んだ(実際にそう刻まれたかどうかは知らない)通り、モリー先生は最期の最期まで愛弟子ミッチに人生において大切ないろいろなことを教える。例えば、「世界について」「自分をあわれむこと」「後悔」「死」「家族」「感情」「老いの恐怖」「金」「結婚」「今日の文化」「許し」・・・。授業が行われるのは毎週火曜日、モリーの家の書斎で、最後は寝室で。文字通り、呼吸が続く限り。
 刻々と迫る自らの死を見つめるユーモアあふれる老哲の、世界に対するラブレターである。


 モリー先生は人工呼吸器をつけなかった。
 延命を望まなかったのである。
 その理由についてこう描かれている。

 ALSを患っている人がほかにもいることは、モリーも心得ている。有名人では、たとえば宇宙物理学の逸材スティーヴン・ホーキングがそうだ。彼はのどに穴を開けて生活している。コンピューター・シンセサイザーを使って話をし、目の動きをセンサーに感知させてタイプまで打つ。
 これはこれですばらしいことだけれども、モリーが望むような生き方ではない。モリーはコッペルに、さよならを言うべき時はわかっていると語る。
「テッド、私にとって生きるっていうのは、相手の気持ちに反応できることなんだな。つまり、こっちの感情、気持ちを示せるっていうこと。その人たちに話しかける、その人たちとともに感ずる・・・・・それがなくなったら、モリーも終わり」
(注:テッド・コッペルはモリーを取材したテレビの人気司会者)


 モリーの周りの家族もそれを理解し、彼の意志を尊重した。
 これもまた一つの生き方=死に方なのであろう。
 ただ、モリー先生がまだ40代だったら話は違ってくるかもしれない。
 愛する人と結婚し、家を持ち、思いやりのある子供を持ち、多くの生徒を育て、ミッチのように社会に巣立った多くの教え子に愛され、人々との交流を楽しみ、ダンスをし、最期は世界に向けて自らのメッセージを発信する。
 ここまで十分に生きることができたのだからこそ、敢然として死を受け入れる気持ちになれたのかもしれない。

 「死にたくない」という気持ちの核心は、死に対する恐怖や愛する人々との別れよりも、生の不燃感=「自分の人生に満足していない」というところにあるのだろう。
 いったいどういう生を送れば満足するのか。
 モリー先生の授業は、それに対する答えなのである。

 おぼえているかな、いかにして意義ある人生を見出すかについてしゃべったこと。私は書きとめておいたけれども、そらで言えるよ。人を愛することにみずから捧げよ、周囲の社会にみずからを捧げよ、目的と意味を与えてくれるものを創りだすことにみずからを捧げよ。




● 本:『逝かない身体 ALS的日常を生きる』(川口有美子著、医学書院)

逝かない身体 2009年刊行。

 60歳目前にしてALS(筋萎縮性側索硬化症)になった母親を介護し、最期まで看取った娘の手記である。
 「歩きにくくて、しゃべりにくい」という異変を来たした母親は、病名告知を受けるや、主治医も驚くほどの速さで病状が進行していった。歩行、食事、排泄、入浴と自分でできることがどんどん失われていき、寝たきりになってしまう。本人も家族も納得ゆくまで存分に話し合う余裕もなく1年も経たないうちに気管切開して人工呼吸器を装着、同時に胃瘻による経管栄養が始まる。家族とイギリスでの生活を楽しんでいた著者は、二人の子供を連れ、夫と離れて実家に戻って来ざるを得なくなる。
 それから10年以上に及ぶ365日24時間休みなしの在宅介護が始まった。


 まず思うのは「身体ってのはなんと面倒くさい、わずらわしいものなのか」ということである。ALSは身体こそ動かなくなるが感覚はそのまま残る。「かゆい」「痛い」「重い」という感覚を感じながらも自分ではどうすることもできないのである。周囲の人に体位交換してもらい、体を掻いてもらい、眠りに入る際の最適な体位を決めるための数センチの微調整にこだわらざるをえない。

 動かぬ身体の彼らは常に、身体と身体、身体と物品、そして身体と身体の拡張性を保障する機械のインターフェースに気を配って生きている。しかしそれを実行するのは本人ではなく別の人であることから、面倒な作業、すなわち介護の必要性が生じるのである。


 いっそ麻痺になって感覚すら失われたほうが、本人も介護者もラクなのではないかと思われるほどだ。普段、健常者がどれほど無意識に身体の微調整を行い、身体に次々と生まれる苦から「自分」を逃がしているかに思い至る。ブッダが看破したように「一切行苦」であり、「快」や「楽」は、「苦」という常態から解放された瞬間にだけ現れるのである。
  
 介護の大変さは想像を絶する。著者は、意気消沈しほとんど役に立たなくなった父親(患者の夫)への期待を捨てて、会社を辞めた妹と代わる代わる付き添いを行う。

 病人がいちばんつらいだろうけれど、自分の人生をなかば放棄してまで親につきあわねばならない子どもには、それなりの言い分も悔しさもあった。でもストレスを発散する方法もない。介護で外出がめっぽう制限されるから、仕事もできないし友人にも会えない。私は介護を契機に夫と別居するはめになってしまったし、妹は長年勤めてきた出版社を退社してしまった。余裕がなくなると自分たちに起きる悪いことはみな母のせいになってしまった。


 お願いだから介護に協力してほしいと何度本人に訴えたかわからない。しかし、こちらの提案はめったに受け入れてはもらえない。まったく協力しないのだ。こうしたら母のためになるだろうといろいろ工夫して実行しても、とたんにダメと却下されてしまう。毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。この先長くALSと仲良くやっていくために。

 まだ動く筋肉を使ってナースコールを鳴らし、透明文字盤と瞳の動きによって意思表示をしていた母親だが、呼吸器を装着してわずか3年で、瞼が開閉できないところまで進んでしまう。いわゆるTLS(Totally Rocked-in Syndrome、完全閉じ込め症候群)である。
 耳は聞こえる、これまで通り身体の感覚もある。しかし、いっさい発信ができない。自分の意志や感情や欲求を伝えることができない。患者が何を思い、何を考えているか、それを周囲が知る手立てがない。
 いや、正確には顔色や血圧や脈拍を通して患者の気分を想像するほかない。
 ここに至って、これまで懸命に介護してきた著者は「安楽死」を考える。安楽死法について調べ、片っ端から見ず知らずの学者に意見を問うメールを出す。 
 

 肉親に迫り来る意思伝達不可能な状態を想ったとき、殺したくなるのは私だけではないはずだ。そんな患者は生きているよりも死んだほうがQOL(生活の質)が高いという医学論文もある。
 そのころ、母の心情を察すると、決まって脳裏に浮かぶ映像があった。
 東山魁夷の絵にあるような深い雪に埋もれた青い森。そのなかをさまよい、いつしか小さな湖の畔に私はたどり着く。そして今にも沈没しそうな一平米ほどの小さな浮き島に母の姿を発見するのである。
 母は腰にエプロンをかけた姿で、小さな木製いすに腰を掛けて寒そうに膝を撫でながら泣いていた。
 
 母親のために何もできない、見捨てざるを得ないという罪悪感に苦しめられ、答えを求めていた著者は、社会学者の立岩真也に出会う。このブログでも取り上げた『ALSー不動の身体と息する機械』の著者である。
 
 ・・・京都に帰る先生を東京駅で見送るまで八時間近くもしゃべり続けたが、先生は迷惑な顔ひとつ見せず、私の話した内容を整理してくれた。そして、社会学者が皆そう言うとは限らないが、私の抱えている問題の多くは病気そのものではなく、社会の仕組みでどうにかできることもあるだろうということになった。 
 その結果、といってはあまりにも予定調和的な展開かもしれないが、私は母に対して、たしかに一生懸命に介護してきたつもりだったけれども、悲惨に考えすぎていたのかもしれないと思い出していた。立岩先生の楽観的な考え方にいつの間にか癒されて、余分な力が抜けていくのがわかった。


 脳は人間の臓器のなかでもっとも重要で特別な臓器と思われているが、母は脳だけでなく心臓も胃腸も肝臓も膀胱も同じように萎縮させ、あらゆる動性を停滞させて植物化しようとしている。そして不思議なほどに体調の安定した生活が長く続いたのだが、これはよく解釈すれば、余計な思考や運動を止めて省エネルギーで安定した状態を保ち、長く生きられるようにしていたということだろう。
 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
 このように考えていくと、私にはALSの別の姿が見えてきた。脳死とか植物状態といわれる人の幸福も認めないわけにはいかなくなった。この時点での私の最大の関心事は、どちらの考え方を採用するかということだった。暗いほうか明るいほうかー。

 
 TLSにある患者、植物状態にある患者の精神状態や気持ちについては、当人以外の誰にもわからない。
 だけど、どういうわけか健常者はそれを「苦しみの極地」「生き地獄」と推測してしまう。自分もまたそうであった。なぜそう思ったのか。
 それは自らの身体を自らの意思で動かすことができる(実はほんの一部分に過ぎないのだが)現在と比較するからである。好きなときに好きなところへ行けて、好きなことができ、好きな物を食べられて、自己表現し、他人と様々なレベルで交流する楽しみを享受している現在と比較するからである。
 つまり、「喪失の恐怖」に耐えられまいと予想するのである。
 だが、ボケが「老い」の苦しみを緩和する働きを持つのと同様、脳はそのときどきの身体が置かれている状況に合わせて、「幸福感」に向けて心を最適化するシステムを持っているのかもしれない。TLS状態にある患者の脳波を調べると瞑想のときに出てくるアルファ波が見られるという研究もある。
 そしてまた、「今ここ」において自分の身体に起こる感覚と、呼吸器の発する規則正しい音と、心に浮かぶ思考だけを随時認識し観察しているALS患者は、仏教におけるヴィパッサナー瞑想の達人と言えるかもしれない。としたら、「悟り」の境地に至る可能性も否定できない。
 TLS状態や「植物」状態にある患者本人が不幸を感じているかどうかは、他人にはどうしたって分からないのである。少なくとも、患者の血圧や脈拍が静穏であることはストレスがかかっていないことを示しているわけである。


 安楽死や尊厳死の問題に正解を求めるのは無意味であろう。正誤も是非も善悪も正邪もない。植物人間に生きる価値がないと断じることが見当違いであるように(なぜなら「植物」には生きる価値がないなどと我々は普段思わないのだから)、いかなる状態になっても生きるべきであると苦しんでいる患者本人に強要するのも、介護する家族の犠牲を当然視するのも、無責任でむごい仕打ちであろう。
 でも、明らかにやるべきことはある。
 障害や難病を抱えても安心して生きていける環境をつくることである。介護疲れで家族がALS患者の呼吸器を止めたりしないよう、介護のために仕事を辞めて精神的または経済的に苦しくなって心中などしないよう、本当は生き続けたい患者が家族や社会の負担を心苦しく感じ自死を選ばないですむよう、社会の仕組みを変えていくことである。
 死を選ぶか否かの問題は、本来ならその先に現れて然るべきテーマである。生きられる現実が保障されていない段階で「生か死か自己決定せよ」と言われたら、死に傾くのは目に見えている。それは強者の論理である。


 もし自分や家族がALSになったら、脳死状態になったら、どんな道を選ぶだろうか。
 そのときになってみないと分からない、というのが本当のところである。
 だが、知らないうちに張り巡らされて、人々を洗脳しようとしている「強者の論理」にたぶらかされて死ぬのだけはゴメンだ。
 そう今は思う。




 

● 本:『不動の身体と息する機械』(立石真也著、医学書院)

不動の身体と息する機械 2004年発行。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は難病中の難病と言われている。運動神経が冒され筋肉が萎縮して動かなくなっていく進行性の病であり、原因不明で治療法も見つかっていない。有名人では宇宙科学者のホーキング博士がいる。
 病気が進行すると、身体の自由はおろか話すことも食べることもできなくなり、やがて呼吸することもできなくなる。
 一方、感覚、自律神経と頭脳は健常なままでいられる。そこがいわゆる「植物人間」とは異なるところである。
 ある患者はそれをこんなふうに表現している。
 「永遠に続くカナシバリ」
 
 この本はわが国のALS患者達が置かれてきた状況、置かれている状況について、膨大な資料を渉猟し、その時々の患者や家族の声を丹念に拾い上げることによって、これ以上は望み得ないほどの十全さで描き出している。A5版450ページ弱の分厚さは、この病気の深刻さを、この病気について述べることの重さをそのまま表している。
 そして、過去数十年間の当事者の声をこれだけ沢山集め紹介していることは、ALSという病気を医療者側からでも介護の負担を背負う家族側からでも、もちろん宗教や哲学や生命倫理の観点からでもなく、患者の側から捉えようとする著者の姿勢を示している。
 むろん、著者が記しているように、患者の声と言ってもそれは「生き続けていて、自らのメッセージを何らかの形で発することのできる環境と能力と気力とを有している(いた)、相対的に恵まれた患者」に限られるのだけれど。その意味で、どちらかと言えば前向きな言説が多くなるというバイアスは仕方ない。

 その辺の事情を勘案しても、この本は滅多にない労作であり、メルクマールである。
 何のメルクマール(指標)か。
 ALSについて今後何かを述べようと画する人にとってのメルクマールというだけではない。安楽死や尊厳死について、病名告知について、近代医療と延命治療について、自己決定について、自己肯定について、死ぬ権利について、生きる意味について、何かを考え何かを述べようとする人にとってのメルクマールである。何かを言う前に「少なくともこれだけは踏まえておきたい」基本綱領とでも言うべき本である。

 
 ALSを発病した人を待ち受けているハードルにはどんなものがあるか。

 まず、病名告知がある。
 他のどんな難病でも告知されるのはつらいものだが、ALSはことに残酷である。
 「自分でできることが次第になくなっていく。思うこと感じていることを周囲に伝えるすべさえ奪われていく。感情や知能は残っているのに身体をコントロールすることがいっさいできなくなり、24時間他人の世話にならなければ生きていけなくなる。余命は長くて10年くらいである」
 それが他ならぬ自分の身に起こることが告げられる。
 
 次に、症状がある程度進んだところで、人工呼吸器をつけるかつけないかという、これまた究極の選択が待っている。
 機械につながれて話すことも口から食べることもあきらめて生き続けることを選ぶか、それとも呼吸を止めて死ぬことを選ぶか、である。呼吸器をつければ10%の人がその後10年以上は生きられる。だが、わが国では約7割の患者は呼吸器をつけないことを選んでいると言う。呼吸器をつけない患者の多くが言うのは「これ以上生きていても他人に迷惑をかけるばかり」。


 呼吸器をつけた人はひとまず生き延びる。呼吸困難の苦しさからも解放される。
 だが、これからどうやって暮らしていくかという難題が待っている。呼吸器が何らかの不備で止まったら窒息死である。24時間体制の見守りが必要となる。介護人をどう確保するのか。そのための費用、あるいは生活費をどうつくるのか。残念ながら、今の社会福祉制度では家族をあてにせずに患者が在宅生活を続けることは難しい。


 介護の問題、生活費の問題がクリアできたとする。
 今度は、周囲とのコミュニケーションもままならない状態で、寝たきりで生きることの困難がある。圧倒的な無為は退屈なのか、苦痛なのか、とてつもないストレスなのか、生き地獄なのか。
 それでも、身体のどこかが動くうちはコミュニケーションは可能である。目も見えれば耳も聞こえる。まばたきの回数と五十音表で周囲に意思を伝えることもできる。
 だが、やがて最終的な状態がやってくる。


 トータリー・ロックトイン・ステイト(TLS)

 完全閉じこめ状態。
 もはや動く箇所が一つもなくなって、周囲への発信がいっさいできない状態である。どこかがかゆくてたまらなくとも、「掻いてくれ」と伝えることもできない。それがどんなものなのかは本人にしか分からない。そして、そのまま亡くなることが通常なので、そこから帰還した人に体験を聞くこともできない。
 患者を見守る家族の体験だけが今のところすべてである。

 母の目玉が止まって、もう二年以上が経つ。残酷な(これ以上ひどい仕打ちは想像できない)病といわれる所以である。家族は最愛の母親を「母の肉体」の中に失い、母は出口を失った。・・・・そうして暗い数ヶ月を過ごした。母の心情は「顔色」「血圧」「体温」が明確に表し、娘や身近な介護者は、動かぬ顔に「表情」を見出そうとした。
 ・・・・母のこのかわいそうな状態を見続けて、こっちまで頭がおかしくなりそうだった。・・・・哲学に一時救いを求めた。人間はなんのために生きているのか。生きている価値とは、どこに見出せるのか。どういうことが生きがいと呼べるのか。母は今どこにいて、何を思っているのだろうか。そんなことばかり朝から晩までえんえんと考えた。 


 ALS患者を待ち受けるこれらのハードルはひとつひとつがとても厳しい高さである。どこかの段階で「死」へと気持ちが傾いても無理はないと思ってしまう。患者の中にも呼吸器をつけないことを選択する人が多いのはすでに述べた。(興味深いことに、日本より欧米諸国の患者の方が呼吸器をつけないという選択をする傾向にあるのだと言う。)
 だが、そのように単純に「質の悪い生」より「尊厳ある立派な死」を願ってしまう人々(自分もその一人である)の「気分」の総和が、世間の価値観を醸成し、社会的な制度や法や習慣や言説を作り出してしまうとき、ALS患者は最初から生き続けることを否定される環境に置かれてしまう。
 これは現実に起こってきたことだと、この本は立証している。
 たとえば、人工呼吸器の登場とALS患者への呼吸器普及には時間差があった。呼吸器はすでにあったのに、「使う必要がない」という言説が一昔前の医療の常識だったのである。呼吸器の使用を望みながら、呼吸器がそこにありながら、医療機関に断られて死んでいった患者が多くいたのである。
 冷静に考えれば、これは殺人行為である。
 だが、そのときにはALS患者は「生きていても仕方ない」というのが、医療界の(世間の)多勢を占める「気分」だったのである。

 そんなふうにして、上のハードルすべてについて、医療・社会の側からの「否定」が突きつけられてきた。それは今も多かれ少なかれ続いている。


・ ALS患者に告知するな。告知するなら本人でなく家族に。
・ いったん人工呼吸器をつけたら、もうはずすことはできないから(本人は当然できない。周囲の者がはずしたら犯罪になる)、本人によくよく呼吸器をつけることのメリット・デメリットを説明し熟慮させよ。
・ ALS患者を受け入れる病院を見つけるのは難しい。在宅で暮らし続けるには、まだまだ十分な環境が用意されていない。
・ 「他人に迷惑かけるな」「ムダな延命措置は自然に反する」「医療費や社会保障費を圧迫する」「自分で何もできなくなる前に、人様のお荷物になる前に、死にたい」「最期まで人間としての尊厳を保って死にたい」といった、それ自体一つ一つは決して間違っているとは言えないし、思うも語るも実践するも個人の自由であるが、どんな状態になろうとも生き続けることを願う当事者にとってみれば「存在そのもの」を否定された気持ちになるであろうことが予想される言説の数々が世の中に蔓延している。


 このような四方八方からの否定に継ぐ否定の圧力の下で、ALS患者たちが生き残ってきたのは、「生」へとベクトルを傾けてきたのは、医療従事者たちの否定的な考えを変えさせたのは、患者本人の生きる意志であり、患者同士の出会いと交流であり、実際に生き続けている患者がいるという事実の力(=エンパワメント)であった。

 

 以下、本文より引用。



★告知について

 ALSであること、それがどんな状態をもたらすものであるのかを、一度にすべてを伝えることはないにしても、かなり短期間の間に、本人に、伝えるべきである。それは、ALSがすぐに亡くなる病気ではなく、しかし状態の進行は早く、それがわかった上でそれに対する対応をとる必要があるからである。そして、家族に負担を偏らせなくとも、なんとか生きていくことは不可能ではないからである。
 もちろん、まちがって悲観的な情報が伝えられるべきではない。三年で死ぬと言われるのと、十年生きている人「も」いると言われるのと、私なら知らされた時の受け取り方が天と地ほど違う。
 そして知らせることは、その人が生きていくことをまずは前提したものであってよいはずであり、あるべきである。生きるためにはこれこれの手段がありますが、と言い、その各々がどんなものかを説明することである。いやそんなものはいらないと言われたら、どうするか。この問題はあるし、残る。しかし、そのことは、伝える時に「中立」であるべきことを意味するものではない。


★「中立」であることの弊害

 生きることを積極的に勧めず、その意味で中立の立場を取るのであれば、それは、否定性があってなお生きていくだけのものが与えられることにならないのだから、その人は死ぬだろう。否定をそのままにして、その人の価値や決定に委ねるなら、その人は自発的にこの世から去っていくことになる。ALSにかかる人の多くは分別盛りの年代の人たちであり、その分別ある人が去っていく。


★暮らしていくこと

 まず、暮らしたい場所で暮らせた方がよい。そしてその場が自宅であることは多い。そして病院に常時いなければならないことはALSの場合にそう多くはない。・・・・・
 自宅で暮らしたい人は、自宅で暮らせるのがよい。そのためには人手がいる。人手さえあれば暮らしたい場所で暮らせる。・・・・・
 基本的な方向としては、家族の負担に依存しないかたちでの在宅での生活を可能にすればいい。


★近代医療・社会と死の関係

 近代医療は「たんなる延命」を志向する、それに対して「人間的な死」「自分の死」を対置するという図式がある。この把握はまったくの間違いというわけではない。しかし基本的にははずれている。実際に起こってきたことを見ればそれがわかる。医療の側が延命に専心してしまうというのは一面的であり、見てきたように、生きるのをやめさせる側にもついてきた。だから、むしろこの紋切り型自体が説明されるべきものとしてある。医療はいつも生きる方向に人をもっていったりはしない。そしてそれは医療に限ったことではない。とても単純に言えば、この社会はその人たちが生きることを阻んできた。
 ここに何かの中心があるわけではなく、とくに誰かがそれを命令したわけでもない。しかしたんに無秩序があるのでなく、見通せない場所に迷い込むような仕掛けになっている。緩衝剤を経て、曖昧に事態は処理される。そしてただ現実がそのようになっているだけでなく、それでよいのだという理由も用意されてはいる。生きてきた人たちはその中で偶然のように生き延びることができたのでもあり、またこの仕掛けに抗して生きてきたのでもある。


★安楽死について

 ・・・身体の苦痛の多くは除去できる。少なくとも軽減できる。だから人はそれ以外の理由によって死ぬ。そしてALSの場合に固有に起こることは、自分のできることが少なくなっていくことである。
 ・・・ここでは仮に、生きるための現実的な条件自体は用意されているものとしよう。それでも生きないことにすることがあるかもしれない。ある文化に属する人は「自分ができることがなくなったから」と言い、また別の人は「人に迷惑をかけるから」と言うかもしれない。・・・・・
 そして、こうした価値をその人が住む社会から受け取ったにせよ、あるいはーあまりありそうにないことだがーその人一人で考えついたにせよ、その価値の妥当性について私たちは考えることができるし、考えたことを伝えることはできる。そこで考えると、やはりおかしいと言うしかない。ここでは生存のための行いを自らできなくなることが自らの生存を否定してしまっている。つまり、生存のための手段の価値が生存の価値を凌駕してしまっている。



★自立について

 まず、正しさの軸をすこし変えること。ALSは普通に暮らしていた人が突然かかる病気である。その人たちの多くはいわゆる分別盛りの年代の人たちで、さらにその多くは普通にきちんと生きてきた人たちである。行儀のよいことはもちろんよいことだ。ただ、それではこの病気の場合には生きにくい。「自分のことは自分でする」とか、「他人に迷惑をかけない」といった徳をそのまま遵守しようとしても、そのままでは生きがたい。だからこの部分は考え直すことになる。
 


★生きることの価値について

 行うこと、行えることの価値が存在の価値を決めることがある。たしかに自らが何かをなせることには価値があるだろう。自分の役にも立つし、他の人の役に立つこともあるし、それだけでない達成感が得られることもある。しかし、役に立つとは生きるための役に立つということであり、それに生きることよりも大きな価値が与えられるというのは明らかに逆転している。自分で行えることはそれほどには大切なものではない。



 最初に書いたように、この本はALS患者の声を中心に編まれたものであり、上に挙げたバリア一つ一つについて様々な考え方・向き合い方・選択をした当事者の声が取り上げられている。だが、ただそれらを羅列し紹介するにとどまってはいない。こんな考えもある、こんな立場もある、こんな意見もある、と著者自身が「中立」を保って判断を保留にしているのではない。人工呼吸器をつける人とつけない人、どちらも必要な情報を十分に得たうえでの自己決定により選択したのだから、本人の自由だと突き放しているのではない。
 同時に、様々な意見や見方をそのまま提示して、判断や評価を読者に任せようとするものでもない。
 著者はそのような「中立」について異議を唱えている。
 自らの基本的な立場を鮮明にしている。

 人の存在・生存に無関心な社会でなく、それを支持する社会であることが基本的に肯定されるとしよう。とすれば、そのためにすべきことが肯定されるし、生存の方を示し、そのための支援を本人に伝えることが支持される。そして、今までのところでは、生存に向かうーたしかに偏りがないとは言えないー行いを不当と考えるためのものは見つかっていない。


 生きることの無条件の肯定がそれである。



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