1997年原著刊行。
70代でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した元大学教師のモリー・シュワルツと、かつての教え子であり全米で最も著名なスポーツコラムニスト、ミッチ・アルボムとの交流の記録(ノンフィクション)である。
墓碑銘に「死するまで教師たりき」という言葉を望んだ(実際にそう刻まれたかどうかは知らない)通り、モリー先生は最期の最期まで愛弟子ミッチに人生において大切ないろいろなことを教える。例えば、「世界について」「自分をあわれむこと」「後悔」「死」「家族」「感情」「老いの恐怖」「金」「結婚」「今日の文化」「許し」・・・。授業が行われるのは毎週火曜日、モリーの家の書斎で、最後は寝室で。文字通り、呼吸が続く限り。
刻々と迫る自らの死を見つめるユーモアあふれる老哲の、世界に対するラブレターである。
モリー先生は人工呼吸器をつけなかった。
延命を望まなかったのである。
その理由についてこう描かれている。
ALSを患っている人がほかにもいることは、モリーも心得ている。有名人では、たとえば宇宙物理学の逸材スティーヴン・ホーキングがそうだ。彼はのどに穴を開けて生活している。コンピューター・シンセサイザーを使って話をし、目の動きをセンサーに感知させてタイプまで打つ。
これはこれですばらしいことだけれども、モリーが望むような生き方ではない。モリーはコッペルに、さよならを言うべき時はわかっていると語る。
「テッド、私にとって生きるっていうのは、相手の気持ちに反応できることなんだな。つまり、こっちの感情、気持ちを示せるっていうこと。その人たちに話しかける、その人たちとともに感ずる・・・・・それがなくなったら、モリーも終わり」
(注:テッド・コッペルはモリーを取材したテレビの人気司会者)
モリーの周りの家族もそれを理解し、彼の意志を尊重した。
これもまた一つの生き方=死に方なのであろう。
ただ、モリー先生がまだ40代だったら話は違ってくるかもしれない。
愛する人と結婚し、家を持ち、思いやりのある子供を持ち、多くの生徒を育て、ミッチのように社会に巣立った多くの教え子に愛され、人々との交流を楽しみ、ダンスをし、最期は世界に向けて自らのメッセージを発信する。
ここまで十分に生きることができたのだからこそ、敢然として死を受け入れる気持ちになれたのかもしれない。
「死にたくない」という気持ちの核心は、死に対する恐怖や愛する人々との別れよりも、生の不燃感=「自分の人生に満足していない」というところにあるのだろう。
いったいどういう生を送れば満足するのか。
モリー先生の授業は、それに対する答えなのである。
おぼえているかな、いかにして意義ある人生を見出すかについてしゃべったこと。私は書きとめておいたけれども、そらで言えるよ。人を愛することにみずから捧げよ、周囲の社会にみずからを捧げよ、目的と意味を与えてくれるものを創りだすことにみずからを捧げよ。