ソルティはかた、かく語りき

東京近郊に住まうオス猫である。 半世紀以上生き延びて、もはやバケ猫化しているとの噂あり。 本を読んで、映画を観て、音楽を聴いて、芝居や落語に興じ、 旅に出て、山に登って、仏教を学んで瞑想して、デモに行って、 無いアタマでものを考えて・・・・ そんな平凡な日常の記録である。

OB交響楽団

● ムラムラ君 : OB交響楽団第194回定期演奏会

日時 2017年10月28日(土)14:00~
会場 ティアラこうとう大ホール(東京都江東区)
曲目
 ワーグナー/楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」
 マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
指揮 太田 弦

フルトヴェングラー 001


 音楽好きなら誰でも「人生最大のレコード体験」というのを持っていると思う。生演奏によるライブ体験とは別に、自宅でレコードやCDを聴いて人生観や音楽観が変わるほどの衝撃を受け、以降音楽に(そのジャンルに、その演奏家に、その歌手に)のめり込むようになった体験のことである。
 ソルティの場合、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がまさにそれだった。
 CDプレイヤーが世に出回るようになってまだそれほど経っていない、20代半ば頃である。ヴェルディ『トロヴァトーレ』との出会いからオペラを聴くようになり、しばらくはヴェルディやプッチーニやベッリーニやドニゼッティなどのイタリアオペラを追っていた。ドイツオペラはモーツァルトくらいだった。なによりマリア・カラスに夢中だった。
 それがようやく落ち着いて、「そろそろワーグナーにチャレンジしようか」と思い、手はじめに秋葉原の石丸電気レコードセンター(今はもう無い)で購入したのが、東芝EMI発売1952年ロンドン録音のフルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲であった。共演はフィルハーモニア管弦楽団、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団である。


フルトヴェングラー 003

 
 購入したその夜、おもむろに聴きはじめた瞬間から全曲終了までの約4時間、ソルティは当時住んでいた板橋の1Kの安アパートから、どこか上のほうにある別の場所に運び去られていた。次から次へと潮のように押し寄せる半音階的和声の攻撃と、うねるように昇り詰めていく螺旋状のメロディに、上等の白ワインを飲んだかのごとく酩酊した。音楽というものが、あるいはオペラというものが、「麻薬であり、媚薬であり、劇薬である」ととことん知った。男でもこれほど長時間のオルガズムを経験できるのだ、とはじめて知った記念日(?)でもある。
 歌手がまた凄かった。
 イゾルデは20世紀最大のワーグナーソプラノであるキルステン・フラグスタート。同CD付属の解説書によると、

 1935年メトロポリタン歌劇場で『ワルキューレ』の練習に際して、彼女が歌いはじめたその瞬間、その歌唱のあまりのすばらしさに指揮者は驚嘆のあまりバトンを落としてしまい、ジークムント役の歌手は茫然として自分の出を忘れてしまった程であった。

 これはまったく誇張でも粉飾でもない。ヴォリューム(声量)といい、輝きといい、鋼のごとき力強さといい、人間が持ち得る最も偉大な声であるのは間違いない。20世紀どころか今のところ人類史上ではなかろうか。
 トリスタンはルートヴィッヒ・ズートハウス。これもフラグスタートの相手役として遜色ない素晴らしい歌唱である。
 フルトヴェングラーはベルリン・フィル共演のベートーヴェン交響曲3番『英雄』、5番『運命』、9番『合唱付』など伝説的名演を数多く残しているが、それらの多くは1940年代のライブ録音ゆえ、音質の悪さも否定できない。名歌手を揃えたスタジオ録音のこのレコードこそが、後代のクラシックファンが聴けるフルトヴェングラー生涯最高の名演奏と言えるのではなかろうか。
 実をいうと、ソルティはこのCDを上記の一回しか聴いていない。その体験があまりに衝撃的で素晴らしかったので、もう一度聞いてそれ以下の感動だったらと思うと、怖くて聴けないのである。CDはケースに入ったまま今もレコード棚の奥のほうに並んでいる。こんなお蔵入りもある。

 さて、OB交響楽団の今回のテーマは、ずばり「愛」である。
 人類最高の恋愛物語の一つである『トリスタンとイゾルデ』は言うまでもないが、マーラーの5番も「アルマ交響曲」と名付けてもいいくらい、結婚したばかりの美しき妻の影響下に作曲されている。別記事でソルティは「男の性」がテーマと解釈した。
 まあ、なんと淫猥にして危険なラインナップであろうか。本来ならこういう演奏会こそ猥褻規定に引っかかるものなのだろう・・・(笑)
 指揮の太田弦(おおたげん)は1994年生まれの20代。舞台に登場した姿はまだあどけなさの残るのび太似のお坊ちゃん。オケの大半のメンバーの孫世代ではなかろうか。すでに日フィルや読響を指揮しているというから、才能の高さはその道のプロに認められているということか。OB交響楽団のようなベテラン&壮年オケがこういう勢いある若手と組むことを大いに評価したい。新しいものとの出会いこそが音楽を活性化する。
 
 出だしからOBのうまさが光る。独奏も合奏も安定している。よく練れている。太田の指揮は、繊細さと精密さが身上と思われる。ゴブラン織りのタペストリーのような、あるいは工学的技術の粋を集めた精密機械を連想した。

タペストリー


 と、分析できたのも最初のうち。1曲目『トリスタンとイゾルデ』の後半の「愛の死」から、舞台から放たれた音の矢がソルティの胸を直撃し、アナーハタチャクラが疼きだした。自分では曲を聴きながら、過去のいかなる甘いor苦い恋愛体験も感情的ドラマも思い出しても連想しても反芻してもいなかったので、まったく不意を突かれた。純粋に音の波動が、聴診器のようにこちらの体をスキャンして、必要なポイントを探り当てて掘削開始したように思われた。
「あらら?こりゃ不思議」と思っているうちに休憩時間。 

 2曲目マーラー5番。OBとマーラーの相性の良さを再認識。若いオケではここまでスラブ的粘っこさをうまく表現できないだろう。独奏もみな上手い。
 第2楽章の終結から今度は股間のムーラダーラチャクラがうごめきだした。くすぐったいような、気持ちいいような変な感触である。第3楽章に入ると、それが背筋を伝って這い上がり、首の後ろをちょっとした痛みを伴って通過して、頭頂に達した。ぼわんとあたたかな光を感じる。ホール内のルックス(照明)が上がった気がした。耽美的な第4楽章に入ると、光は眉間のアージュニャーチャクラ、いわゆる第三の目にしばらく点滅しつつ憩っていたが、最終楽章でスッと体の前面を下に降りた。華やかなクライマックスではオールチャクラ全開となった。
 体中の凝りがほぐれ、気の通りが良くなって、活気がよみがえった。
 終演後、最寄り駅に向かっていたら、ひさかた忘れていた“ムラムラ君”に襲われた。どうにもこうにも落ち着かないので途中の公園で瞑想すること40分。ムラムラ君は何かに変容したようである。
 やっぱり、音楽は麻薬だ。

ムラムラ君

ムラムラ君




 

● 全米的! : OB交響楽団第192回定期演奏会

日時 2月12日(日)14:00~
会場 杉並公会堂大ホール(東京都)
曲目
  • シベリウス/交響詩「フィンランディア」
  • チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
  • ドヴォルザーク/交響曲9番ホ短調 作品95「新世界より」
  • (アンコール)ドヴォルザーク/スラブ舞曲 第1集 第1番
ヴァイオリン独奏 大島茜(OB交響楽団コンサートマスター)
指揮 松岡 究

 30分前に会場に着いたら、すでに95%(1190席×0.95≒1130席)の充填率。あと10分遅かったらアウトだった。指揮者を正面から見下ろす、オケの後方上部にある席にかろうじて座れた。ここから見渡すと、びっしり埋まった客席が壮観である。
 長い伝統を誇るOB交響楽団の人気と大量の招待状投与。五大ヴァイオリン協奏曲の一つとクラシック随一の有名曲『新世界より』というゴージャス極まりない組み合わせ。満員御礼も無理ないと思うのだが、やっぱりここ最近のクラシック人気はただごとではない。定年退職した頃合いの男性一人客、あるいは高齢のカップルが多いように見受けられる。
 ソルティの隣に座った初老カップルは、妻のほうが亭主に本日のプログラムの内容についてあれこれ指南していた。
「チャイコフスキーって同性愛だったのよ。最後はそれがばれて毒を飲んで自殺したのよ」
「ドヴォルザークは50歳過ぎてからアメリカに招かれて『新世界』を作曲したんだけど、ホームシックになってチェコに戻ったのよ」
「松岡究(はかる)さんの愛称はキュウちゃんっていうのよ」
 
 シュワッ!
 

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杉並公会堂はウルトラマン誕生の地とされている


 今回は一曲目から躍動感ある選曲で、会場のボルテージが瞬く間に上がった。この雰囲気のまま2曲目のヴァイオリン独奏者にバトンタッチされていくのは賢いやり方と言える。
 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、まことに甘美でロマンチィクで情熱的な名曲であるが、ヴァイオリニストには超絶技巧が要求される。チャイコフスキーから渡された楽譜を見た当時ロシア最高のヴァイオリニストであったレオポルト・アウアーが、「演奏不可能」と言って初演を拒絶した話は有名である。実際、初演は惨憺たるものであった。
 超絶技巧(=難解さ)はCDで聴くだけでも十分わかるのだが、今回たまたまステージの上というヴァイオリニストの左手の動きがよく見える位置に座したこともあって、本当に凄いテクニックが要求される曲であることが実感できた。唖然とする指捌きだ。
 連想したのは、フィギアスケートである。
 
 ここ数年、男子のフィギアスケートは四回転ジャンプの競い合いになっている。一つのプログラムに四回転を何回入れることができるか、何種類の四回転を跳ぶことができるか、四回転と三回転を組み合わせた連続ジャンプができるか・・・といったことが、勝敗を決めるポイントになっている。四回転を跳べない選手はもう国際大会で上位に入ることはできないだろう。
 だが、このような状況になったのはつい最近のことで、数年前まで四回転ジャンプができる男子選手はロシアのエフゲニー・プルシェンコやアレクセイ・ヤグディンなど数名に限られていた。四回転を決めたプルシェンコが、三回転しか跳ばなかったエヴァン・ライサチェクに金メダルを許したバンクーバ・オリンピック(2010)は記憶に新しい。高橋大輔は四回転ジャンプにこだわり特訓を続けていたが、本番ではなかなかきれいに決めることができなかった。(それだけに応援する側もハラハラし通しであった)
 それが今や「四回転できぬは人にあらず」の勢いで、次から次へと若い選手がポンポン決めている。
 世界で最初に四回転ジャンプに成功したのは、カナダのカート・ブラウニングで1988年のことである。それまでは、「三回転が人間の限界、四回転は夢のまた夢」みたいなものであったろう。
 人間の潜在能力&学習能力というのはすごいものである。どんな難題でも、だれか一人が「できる」ことを証明してしまうと、どんどんと後続が現れる。
 
 このチャイコのヴァイオリン協奏曲も、一流ヴァイオリニストによる「演奏不可能」の烙印を裏切って、今日では日本のアマチュアオーケストラのコンサートマスターが何の造作もなく(のように見える)完璧に弾ききってしまうのである。
 もちろん、テクニックは前提条件であり、そこから真の表現行為はスタートするのであるが・・・。
 この曲は映画『オーケストラ』で主役を演じている。聴いていると、どうも映画のシーンがあれこれ浮かんでくる。『ベニスに死す』とマーラー5番のように、映像とクラシック音楽との完璧なる結婚の一例であろう。

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 『新世界より』は徹頭徹尾‘気合い’のこもった迫力ある演奏であった。座席位置のせいかもしれないが、金管楽器の音がよく響いて、実にカッコよく勇壮で気分爽快。自信を持って吹いているところが、さすがベテラン揃いと感じた。「ブラボー」も盛大な喝采もアンコールも当然と言える好演。満席の圧力が指揮者とオケのメンバーを奮い立たせたのであろう。

 ソルティは『新世界より』を聴くといつも「全米的」と思うのだが、この曲は標題音楽ではないので、ドヴォルザークは別にアメリカを描写しようとしたわけではないと言う。
 いったいなんで「全米的」と感じるのだろう?
 今回その答えが分かった。
 ソルティが「全米的」と感じるのは、この曲からマールボロ風なもの、つまり西部劇的なものを聴き取るからである。とくに第一楽章にその傾向が強い。馬に乗ったカウボーイが夕陽に向かって走り去っていくイメージが連想されるのだ。

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 だがこれ、順番が逆なのだ。
 ソルティが幼いころから父親と一緒にテレビで見ていた西部劇(主として50~60年代に制作されたもの)に使われていた音楽こそが、『新世界より』をはじめとするドヴォルザーク作品の影響を色濃く受けていると考えるのが理にかなっている。
 たとえば、「マールボロCM」のテーマすなわち映画『荒野の七人』、『大脱走』、『十戒』、『ゴースト・バスターズ』のBGMを作曲したエルマー・バーンスタイン(1922-2004)は、もともとクラシック音楽を学んでいた。ドヴォルザークがアメリカに招かれたのも、アメリカの音楽に新たな風を吹き込まんためだったのである。

 アメリカのクラシック作曲家の多くは、19世紀後半まで完全にヨーロッパのモデルの中で作品を作ろうとしていた。高名なチェコの作曲家、アントニン・ドヴォルザークは、1892年から1895年にかけてアメリカを訪れた際に、アメリカのクラシック音楽は、ヨーロッパの作曲家の模倣に代わる新たな独自のモデルが必要だと繰り返し語り、その後の作曲家がアメリカ独自のクラシック音楽を作るきっかけとなった。(ウィキペディア「アメリカ合衆国の音楽」より抜粋)
 

 考えてみたら、アメリカに足を踏み入れたことのないソルティが、何を持って「全米」をイメージするかというと、これまでに読んだアメリカ小説や漫画(ピーナッツシリーズ等)、これまでに観たアメリカ映画やテレビドラマやミュージカル、これまでに聞いたアメリカの音楽(ポピュラーソング、黒人霊歌、ジャズ、カントリーソング、映画のサントラ)などの材料から作った「ごった煮」なのである。19世紀末のドヴォルザークの訪米は、この「ごった煮」の味付けに相当影響しているのではなかろうか?
 
 『新世界より』終了後、万雷の拍手の中で初老カップルの亭主が妻にささやいた。
「この曲途中で『遠き山に日は落ちて』が出てきろう? ドヴォルザークは日本に来たことあるのかな?」
 
 「全米」が『新世界より』を生んだのではなく、『新世界より』が「全米」を産み落としたのかもしれない。
 

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● マーラー交響曲第1番「巨人」 :OB交響楽団第191回定期演奏会

日時 2016年10月16日(日)14:00~
会場 かつしかシンフォニーヒルズ・モーツァルトホール
指揮 田久保裕一
曲目
  • モーツァルト/交響曲第38番ニ長調K504「プラハ」
  • マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」(花の章付き)
  • アンコール チャイコフスキー/『くるみ割り人形』より「花のワルツ」

 ここ一年ばかり、アマオケめぐりが趣味となって実感したことの一つに、「あちこちに良いホールがあるんだなあ」というのがある。機能的で音響効果に優れ、どこからでも舞台がそれなりによく見えるよう配置された座り心地良い椅子が並び、内装やインテリアにも品がある。そんなホールが下町のど真ん中にデンと構えていたりする。悪名高きバブルの残した数少ない恩恵と言うべきか。
 かつしかシンフォニーヒルズもその一つで、バブル終息期(1992年)にオープンしている。
 葛飾区は、先ごろ最終回を迎えた秋本治作の世界最長の少年マンガ『葛飾区亀有公園前派出所』で全国的(世界的?)に有名になった東京の代表的な下町である。京成電鉄の青砥駅で降りると、いかにも‘両さん’が歩いていそうな下町風(昭和風)の商店街が広がっていて、10分ほど歩いたところに不意にモーツァルトの立像を抱いたモダンで美しいシンフォニーヒルズが出現する。いっきに昭和から平成を回避してウィーンに来たかのような印象を受ける。

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 OB交響楽団を聴くのは2回目。
 オケのメンバーの平均年齢が高いのが最大の特徴(ベテラン揃い)で、長所も短所もそこに由来する。なにせ数年後には200回に達する演奏歴を誇っている。
 前回書いたが、オケの音に厚みと粘りがある。技術はまったく問題ない。団員の呼吸も合っている。最初から最後まで統一感を保持できる。安心して聴いていられる。やはり‘スライム’を連想した。

スライム

 一方で、新鮮味のない、譜面どおりの上手な演奏に終わってしまう可能性がある。
 特に、前回のシューベルトや今回のモーツァルトのような古典的な形式の有名曲をやると、短所が顕わになりがち。なぜかわからないが、『プラハ』はテンポも終始ゆっくりでメリハリに欠いていたので、ますます短所が強調されて、前回の『未完成』同様、凡庸で退屈なものになってしまった。モーツァルトの曲は、たとえオペラ『ドン・ジョバンニ』のような悲劇であろうと、旋律の輝かしさと心はやる疾走感が生命線であることに変わりはない。古典的な曲をやるのならもう一工夫ほしいところである。
 それとも、スロースターターの団員たちの指と心を温めるための戦術なのだろうか?
 
 一曲目が終わってちょっとがっかりして、せっかく誘った友人に申し訳ない気持ちになった。が、そこはやはりスライム。二曲目で見事リベンジした。

 マーラー交響曲1番は、若々しさと独創性が漲って、新しい時代の天才音楽家の登場を告げるに十分なノベルティ(新奇さ)と刷新の気風に満ちている。4つの楽章(今回は‘花の章’含め5楽章だった)のそれぞれが非常に印象的で、耳について残りやすく、ヴィジュアル喚起し、それこそ‘両さん’のようにキャラが立っている。実際、どの楽章も甲乙つけがたく魅力的で、面白い。

 第1楽章は「カッコウ行進曲」とでも名づけたいような、楽しくさわやかで希望に満ちた調べ。自然賛歌であり、同時に生の喜びの押さえきれない表出であり、これから始まる人生への期待を歌っているように感じる。
 
カッコウ

 第2楽章は、通常なら省かれる「花の章」。
 当初第2楽章として構想されたのだが、後にマーラー自身の手により削除されたと言う。青年時代のマーラーの恋愛がモチーフと言われるだけあって甘美で夢見るような調べ。メロディラインの美しさでは、交響曲5番のアダージョと双璧と言っていいかもしれない。これほど聴く人の心をつかむ名曲を埋もれさせるのはもったいない。ぜひ、今後も挿入してほしいものである。

花の章

 第3楽章は、もっともソルティが好きな部分。ここは何といっても低弦が繰り返し刻むリズム「バン・ボ・バンバン・ボ」が心地よい。専門用語で「オスティナート」と言うらしい。この浮き立つように快適なリズムに乗って、人生の門出および順風満帆の社会生活が歌われる。終わりのほうでは、優美な民族音楽風のワルツが奏でられ、華やかな社交界と大人の恋愛模様とでもいったブルジョアっぽい風景が描かれる。指揮者として頭角を現し女性関係も賑やかだったマーラーのイケイケ青春時代を表現しているかのようである。

順風まんぱん

 人生、山あり谷あり。
 第4楽章は一転して暗く沈うつな曲調。「挫折、哀愁、宿命、鬱」といった言葉が思い浮かぶ。
 マーラーは双極性障害いわゆる躁鬱病だったんじゃないかと思う。すべてが「上手く行っている」と意気軒昂になるかと思えば、どこからか宿命の「スラブ的な」調べが鳴り響いてきて、すべてが「暗く見えてくる」。あたかも運命が「お前には幸福になる資格はない」とでも言っているかのよう・・・。
 だが、この楽章が聴く者をそれほど暗澹たる気分にさせないのは、使われている主要旋律のもとになっているのがおなじみのフランス民謡『鐘が鳴る』だからである。この曲がNHKの子供番組の中で『グーチョキパーでなにつくろう』という手遊び歌として紹介されてヒットしたことが示すように、子供にも覚えやすい単純なメロディで『かえるのうた』のように輪唱(カノン)して楽しむことができる。
 実際ここでも、コントラバスから開始された主要旋律を他の楽器が次々と追いかけて、多彩な音色を重ねながら輪唱して行くさまは、とても聴きごたえがあって面白い。だから、暗く沈うつではあるけれど、のちの交響曲5番や6番の第1楽章のようには重々しく深刻な印象は与えない。(しかも、この楽章の中間部には、のちの「アルマのテーマ」につながる情熱的で包み込むような美しい旋律が挿入される。)

鐘


 「引きこもりの平和」とでも言うべき、静かで穏やかな心境で終わった第4楽章は、シンバルの一撃とともにいきなり破られる。その印象はまさに、

泰平の 眠りを覚ます 上喜撰
たった四杯で 夜も寝られず

 すなわち、幕末(1853年)のペリーによる黒船来航の際の日本である。まさかマーラーを聴いて、この狂歌が思い浮かぶとは!(ちなみに上喜撰とはお茶の銘柄。蒸気船とかけてある)
 その意味では、この第4楽章から第5楽章の転換は、ベートーヴェン《第九》の第3楽章から第4楽章の転換と似ている。《第九》同様、ここは平和を破られた悲劇と言うよりも、「見せかけの安眠を貪っている場合じゃない。目覚めよ!危急のときだ。世界はお前を待っている。さあ、活動せよ!」と、覚醒を誘う叱咤の声という感じがする。
 
青春は終わった。ここからが本当の大人の社会。
自分の足と才覚とで難事に立ち向かえ(第1主題)。
その先には、(もしかしたら)アルマのように美しく女性らしいパートナーが待っているかもしれない(第2主題)。

 ここから先は、この曲を作っていた当時のマーラーには未知数だったのだろう。なんとなく苦しい展開部になっている。
 ただ、成功に対する強い野心と確信が30歳手前のマーラーにはあった。全曲のフィナーレは、金管楽器の吹き鳴らす強く輝かしい凱歌で聴く者を圧倒する。

勝利の女神


 こんな独自の解釈をしたくなるくらい、OB交響楽団の演奏と田久保裕一の指揮は、表現豊かで素晴らしかった。ソロパートが多いこの曲こそ、腕の達者なベテランメンバーが揃っているこのオケにはふさわしい。どのソロも難なくこなしていて「さすが」であった。粘りのあるスライム感は、マーラーを構成するモチーフの一つである「スラブ的(ユダヤ的?)因縁」を表現するのにうってつけである。古典派の交響曲に比べると複雑で支離滅裂なようにも思えるマーラーのカオス世界も、しっかりした技術と長年の経験と調和のとれたOBオケだからこそ、方向性を見失ってバラバラに空中分解することなく、最後まで凛とした力強いフォルムを呈示できる。
 OBオケ、意外にも(失礼!)マーラー合っている。
 
 田久保裕一は、今年の11月にウィーンの楽友協会大ホールで、この「巨人」を振る予定らしい。このレベルなら拍手喝采&「ブラヴォー!」を受けると思う。
  誘った友人も「こんなにマーラーが面白いとは思わなかった」と満足そうであった。ほっとした。
 
 帰りの駅のホームから、タイタン(巨人あるいは土星)ならぬ満月が、滴るような赤い光を放っているのが眺められた。

 
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